コーヒーについて長く仕事をしている人を見て、
「経験があるから分かるんだ」
と思うことがあります。
焙煎中の豆を見て判断する。
抽出したコーヒーを飲んで調整する。
生豆を見て焙煎方法を考える。
それを何度も繰り返してきた人ほど、判断が早くなることがあります。
では、経験が増えると、何が増えているのでしょうか。
単純に、年数だけが増えているわけではありません。
これまで見たものと、今見ているものを比べるための材料が増えています。
たとえば、初めて焙煎するとき。
豆の色が変わっても、それがいつも通りなのか、少し早いのか、遅いのかは分かりません。
香りが変化しても、その変化が何を意味しているのか判断する材料がありません。
何度も焙煎していると、
「前にも似た変化があった」
「このときは、そのあとこうなった」
という経験が少しずつ増えていきます。
今起きていることを、過去の経験と比べられるようになります。
抽出でも同じです。
お湯の落ち方がいつもより遅い。
粉の状態が少し違う。
飲んでみると、いつもより味の印象が違う。
経験が増えると、こうした小さな違いに気づきやすくなることがあります。
そして、
「挽き目が関係しているかもしれない」
「豆の状態が前回と違うのかもしれない」
と、次に確認するところを考えられるようになります。
つまり経験は、
答えを覚えていくことだけではありません。
何かが起きたときに、
「どこを見ればいいか」
「何を疑えばいいか」
という選択肢が増えていくことでもあります。
ただし、経験が増えれば、いつでも正しい判断ができるようになるわけではありません。
経験には、もう一つの面があります。
以前うまくいった方法があると、
「今回も同じだろう」
と考えやすくなります。
似た見た目の生豆を見て、
「このタイプなら、こう焙煎すればいい」
と早く判断できることもあります。
それは経験の強みです。
しかし、実際には前回と条件が違うかもしれません。
産地や品種が同じでも、生豆の状態まで同じとは限りません。
収穫された年も違います。
精製や乾燥、保管の状態も違うかもしれません。
焙煎機の状態や、その日の環境も違います。
経験によって判断が速くなることと、今回の状態を見なくてもよくなることは別です。
「前はこうだった」
という経験は、最初の予想を立てるためには役立ちます。
でも、その予想が今回も合っているかどうかは、今の結果を見て確かめる必要があります。
ここで、経験の使い方が分かれます。
「経験上、こうなる」
で終わるのか。
「経験上、こうなるかもしれない。では今回はどうだろう」
と見るのか。
後者なら、経験は答えではなく、
仮説を立てるための材料
になります。
そして結果が予想と違えば、その経験に新しい情報を加えることができます。
「この条件では違った」
「この豆では当てはまらなかった」
「以前は見ていなかった条件が関係しているかもしれない」
そうして、次の判断が少し変わります。
経験が増えるということは、
同じ判断を繰り返せるようになることだけではありません。
過去と現在の違いを見つけ、その違いに応じて判断を変えられる材料が増えることでもあります。
だから、経験年数が長いことと、経験をうまく使えることは必ずしも同じではありません。
何年やったか。
何回やったか。
それだけではなく、
その中で何を見たのか。
何を変えたのか。
結果はどうだったのか。
予想と違ったときに、何を考え直したのか。
そうした積み重ねが、次の判断に使える経験になっていきます。
経験は、正解をたくさん持つことではありません。
今起きていることを見るための比較材料を増やし、次に何を確かめるかを考えられるようになることです。
そして、新しい結果が出たら、それまでの経験もまた更新されていきます。